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名称 竜洋地区と天竜川



分野 自然
地区 竜洋地区・全域にわたるもの
所在地
見所

 竜洋地区は室町時代、天竜川の左岸に位置した。なかでも旧掛塚町は昭和19(1944)年まで川の中州として右に現在の天竜川、左に天竜川東派川が流れた。この掛塚は天竜川の度重なる洪水に見舞われ、左右からの激しい天竜川洪水との戦いの歴史であった。

 掛塚の地名が登場するのは文明17(1485)年、万里集九(ばんりしゅうきゅう)が記した漢詩文集「梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)」に初めて「懸塚」の地名で記されている。万里集九は掛塚湊に立ち寄り、船主の家に泊まり、もてなしを受けている。

 豊臣秀吉、徳川家康の時代には、天竜川沿いにある豊富な伊那谷森林資源が本格的に活用され始めた。伐採された材木は筏で川を下り、河口の掛塚湊から消費地へ船で運ばれた。大阪城、江戸城、駿府城等の造営・修復。京都、江戸の神社仏閣、江戸の街づくり等に、莫大な材木が運ばれた。長野県天竜村にあった幕府満島番所の記録によれば、貞亨4(1687)年には年間6754艘の筏が通過(木数として年間236,511本)している。下流へ行けば更に北円の筏が加わり、相当多くの筏が下ったことが想像できる。幕末から明治になると通船が活発になり、掛塚からは塩・砂糖・魚・ミカン・落花生・石油など掛塚へはお茶・串柿・胡桃・椎茸・木炭などの日用品が動いた。

 明治に入り、金原明善の治水事業が始まる。明治18(1885)年から10ヶ年の内務省直轄による第一次改修。大正12(1923)年から10ヶ年の第二次改修。昭和38(1905)年以降の総体計画による第三次改修に分けられる。

 第一次改修工事によって、十郎島村居村は掛塚地区と浜松地区の間に、天竜川の中州として存在したが川の流れをよくするために除去された。

 第二次改修工事によって、現在の川幅が決められ堤防も強固なものになった。主な工事は昭和4年河輪築堤工事、昭和10(1935)年東派川締め切(昭和19(1944)年竣工)、昭和25(1950)年西派川締め切(昭和26(1951)年竣工)等が行われ現在の天竜川の姿が構成された。川幅900mに決められたため、東大塚村は消滅した(13軒)。豊岡(西堀地区)では10軒が移転。川袋では神社を含め7軒、掛塚地区でも10軒が移転している。浜松地区では古川寄合新田、弥助新田は消滅。51軒が移転している。

 また、浜松の老間地区では3分の2が削り取られている。

 竜洋地区では東派川締切による元の川の土地は有効利用され、その面積は竜洋地区の17.6%にあたる。


 明治(1868年)以後の渡船場及び木橋跡を記すと次のようになる。

(1)浜松−十郎島村居村−十郎島
栄橋 240間(432m)、東橋 110間(198m)明治36(1903)年の洪水で流失

(2)中町−古川寄合新田 
(共栄橋)明治7(1874)年頃架設。明治30(1897)年流失。

(3)大当町−古川寄合新田 (大当町橋) 明治22(1889)年の洪水で流失。(200間)

(4)東町−駒場村三軒家 (渡船場)

(5)金洗村−岡村 (渡船場)

(6)金洗村−駒場 (長豊橋)
170間(306m)巾7尺 明治36(1903)年4月完成。

(7)江口村−平間村 (渡船場)

(8)西堀村−堀之内 (敷地橋のち豊堀橋)明治22(1889)年完成。

(9)東大塚村⇔西大塚村。 (渡船場)

(10)川袋村−老間村 
明治7(1874)年頃架設、明治22(1889)年の洪水で流失。

(11)浜松−掛塚村 (木橋)
480間(864m)、幅9尺、車よけ9ヶ所。明治39(1906)年完成。昭和30(1955)年廃止。

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