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名称 蓑笠義民 (みのがさぎみん)
下岡田にある一揆記念碑での供養祭の写真
下岡田にある一揆記念碑での供養祭



分野 ひと・歴史・産業
地区 磐田地区
所在地 下岡田
見所

慶応3年(1867)から明治2年にかけて、遠州地方一帯は非常な凶作に襲われ、特に明治元年には、天竜川、太田川の両河川が氾濫して各所に出水を来した。そのため中泉代官所の治下は勿論のこと、掛川藩、浜松藩の農民達も困窮し、苦難の生活に陥った。
 この窮状を中泉代官は救済することなく、強硬な年貢取り立てを強行、農民の嘆願を無視する政策を強行したので農民の怒りが頂天に達し、明治3年1月1日、豊田群70余人の名主全部のみで静岡藩へ直訴する事にしたが、三ヶ野坂には3000人もの農民が集合して農民一揆を強行することとなった。途中袋井宿原野谷川で掛川藩に阻止され、代表\6人が清水の獄に連行された。
 下岡田村名主:鮫島治衛門万平・百姓代:大塚市郎平、上岡田村名主:鈴木孫三郎・百姓代:鈴木惣太夫、千手堂村名主:山田孫三郎(身代わりに山田寛吉郎)・百姓代:山田勇三郎の6名が獄に送られたが、明治5年、鮫島治衛門万平を除く5名が帰郷を許された。一人残った鮫島治衛門万平は、明治7年4月28日清水の獄舎で獄死した。
 この事件は、うち続く凶荒にもかかわらず高い年貢を強行した圧政と、浜松、掛川両藩が行なっている年貢割引をも考えない悪政に対する反抗により起ったもので、重税にあえぐ農民の選んだただ一つの方法でしかなかったといえよう。義民の供養祭を、毎年11月3日地元有志、自治会長、地元僧侶が集って記念碑の前で挙行している。

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