1853年(嘉永6年)遠江国中泉代官
1806年9月24日(文化3年8月13日)上野国群馬萩原村(群馬県高崎市)生まれ。鐵蔵、伊太郎の通称を持つ、幕末の儒学者。1878年(明治11年)1月16日没。墓所は、東京都港区赤坂の澄泉寺。
元々は御箪\笥同心という下役人であったが、彼の文才に注目した藤田東湖の推を得て奥火元番に抜擢され、昇進の道を得る。甲府勤番師弟の学問所である徴典館の学頭など諸役を歴任。
中泉代官在任中の安政の大地震への対応では、永続して窮民を救済する恵済倉という方法を考案して貧民の救済に尽力した。特に、被害甚大な原の谷川、太田川沿線の住民救済の功績が大。また、三河、遠江の詳細で正確な地図を作成した実績により幕閣の信を得た。
中泉代官時代には、石川依塀平(国学者)、福田半香(画家)、三宅鴨渓(画家)、渡辺玄知(医師)、と親しい間柄。
磐田駅前の萬徳寺に同伴して来磐した義母の墓所がある。
幕府要職にありながら、一枚の肖像画も残っていない。
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