競馬場は中島と駒場にあった。中島競馬場は、新幹線の北側で天竜川堤防の東にあった私設の競馬場である。大正初期頃、元河川敷に馬場が作られた。馬場の大きさは、およそ南北400m程度、東西100mにて一周が1000m位あったといわれている。
「十\束村沿革史」によると、大正4年(1915年)に十\束小学校増改築工事の落成式があったとき、余興として競馬会を天竜川原の中島地内で行ったところ盛会を極めた、と書かれている。競馬は大正10〜13年(1921〜4年)ごろが最盛期で、昭和2、3年(1927、8年)ごろまで実施された。中島には、出走馬が60頭余りもあり、1日に10レースも行われて3日間続けたということもあった。
駒場の稲荷山は、不動尊が祀られていて大正初期までは参詣者が多く賑やかであった。そこに馬場を作って明治中期頃より草競馬を始めたという。
明治期以後における一般庶民の娯楽として、村芝居や相撲があるが草競馬も人気のある催しであった。各地で盛んに行われていた。
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