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名称 青山 士 (あおやま あきら)
青山 士の写真
青山 士

パナマ運河
パナマ運河

荒川を視察する晩年の青山士
荒川を視察する晩年の青山士

分野 ひと・産業
地区 磐田地区
所在地 中泉
見所

【 明治6年(1878年)〜昭和38年(1963年)】

 明治36年(1904年)パナマ運河工事に参加した日本人唯一の人、しかも土木技師として、ガツン閘門(こうもん)の設計も担当した。世紀の大事業に加わり、青春の情熱を傾けること7年半、明治45年(1912年)1月、同工事が約80%、ほぼ完成の段階で帰国。その後、明治43年(1910年)大洪水後に計画された荒川放水路工事を、その技術を活用して建設を指揮し昭和2年(1927年)にほぼ完成させた。
 青山士は、明治13年(1880年)9月23日、中泉に生まれ、尋常小学校卒業後上京し、東京の府立一中、一高を経て、明治36年(1903年)東京帝大土木工学科を卒業。
 昭和11年(1936年)に内務技監として退官までの24年間、内務省に奉職。主として河川改修工事、港湾工事を指揮、技監を退官後は、東京市、兵庫県、旧満州国などの嘱託として土木行政・治水事業などを指揮。
その後戦後になって、磐田市の実家に帰省隠居し、生活に困窮したとされるが、有志より県などの土木事業の技術顧問としてしばしば活動し、心の師であった内村鑑三の著作をはじめ、土木事業、キリスト教、哲学、技術書を愛読、敬虔にして心静かな老後を過ごし、昭和38年(1963年)3月21日磐田の自宅にて84年の生涯を閉じた。
 青山士の生き方は、無教会主義のクリスチャンであった内村鑑三の影響を強く受け、私利私欲のためではなく広く後世の人類のためになるような仕事をしなければならない、という思想を貫いた。
 墓所は、中泉駅南陸橋の南にある中泉寺にある。

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