【 永万元年(1165年)〜文治4年(1188年)】
千手は、駿河国手越(現静岡市駿河区手越)の長者の娘として生まれた。母親が千手寺(磐田市千手堂)の千手観音にお参りして授かったことで、「千手」と名づけられた。
後に源頼朝に官女となり、頼朝が12人の美女を揃えたという記録の中で、1番目に名前を挙げられた、平安時代末期の女性。地元ではいつの頃からか、千寿と呼ぶようになった。
一ノ谷の戦いで源氏の捕虜になった平重衡(平清盛の五男、正三位中将)の世話を命じられ、互いに恋い慕うようになった。この重衡との恋物語は、「平家物語」「源平盛衰記」や「吾妻鏡」などに登場し、能\や浪曲、詩や歌に語り継がれている。
元暦2年(1185年)6月25日、重衡が木津川畔で処刑された後尼となり、白拍子村(現在の磐田市野箱)で24年の生涯を閉じるまで、重衡の菩提を弔った。
千手の墓は「傾城塚(けいせいづか)」(傾城とは、色香に迷って君主が城や国を滅ぼすほどの美人という意味)と呼ばれ、毎年命日の4月25日前後に、千寿顕彰会により供養祭が行われている。
|