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名称 寺谷用水(てらだにようすい)
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分水工
分水工

船明ダムの竹山祐太郎翁像
船明ダムの竹山祐太郎翁像

分野 歴史・産業
地区 全域にわたるもの
所在地
見所

寺谷用水の始まりは天正16年(1588)、徳川家康が家臣の伊奈忠次に天竜川の治水と開発を命じたことによる。忠次は当時加茂村に住んでいた平野重定を普請奉行に任命し事に当たった。重定は用水建設にあたり、現在の磐田市寺谷地先の天竜川の支流から取り入れ、浜部地先までの12kmの用水路を1590年1月に完成させた。用水は取水の位置から「寺谷用水」と名付けられた。時は約430年前であり、関ケ原の戦い(1600)江戸幕府(1603〜)という時代背景であった。
 しかし、水量の豊富な天竜川は「あばれ天竜」と言われ、大雨の降るたびに流心を変え、今までの場所では取水が困難となり、その度に何度も取水の位置を変える必要があったため、人々は安定した取水ができることを望んでいた。
 一方、天保2年(1831)幕府の役人であった犬塚祐一郎により、天竜川の水を磐田原台地にトンネルを潜り現在の磐田市東部地区から袋井市南部まで通水するという「社山疏水計画」が考案された。安定した取水の場所を得たいという寺谷用水の願いと、天竜川の豊富な水を利用したいという社山用水の願いが一つになった大事業であった。明治時代になりトンネルの設計段階になったが、高低差の関係もあり事業は頓挫してしまった。時を経て昭和の時代になり再び事業が実施され、社山トンネルとともに水路も完成し、昭和19年に袋井市南部まで天竜川の水が届いた。現在は元々の寺谷用水の地区は寺谷用水土地改良区が、また磐田原台地から東側の地区は磐田用水東部土地改良区が管理している。

 その後、昭和25年に国土総合開発法によって天竜川上流部に複数のダムが建設されたことによって天竜川は河床低下が進み再び取水が困難となってしまったので、当時の建設大臣(のちの静岡県知事)竹山祐太郎先生のご尽力により、「農水」「工水」「上水」さらに「発電」を加えた多目的ダムである船明ダムが昭和54年に完成し、現在も同所から取水している。
 寺谷用水ではさらに末端部まで安定した用水が流れるよう、一部を「パイプライン」による通水に切り替えた。今まで使っていた小用水(U字溝)に代わって、給水栓を開ければ水道の蛇口のように水が出るというような仕組みに変えた。現在寺谷用水管内は約45%(約700ha)がパイプライン通水に切り替わっている。
 また、寺谷用水土地改良区では天竜川の水を守るために昭和31年(1956)に上流部で40haの水源涵養林を育成し、更に上流部の人たちに感謝すべく平成24年(2012)から磐田市の友好都市である駒ケ根市などに「感謝米」を贈呈するなど、天竜川の環境を守る活動も実施している。

(参考)寺谷用水土地改良区のホームページ、磐田用水東部土地改良区のホームページをご参照ください。

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