湊としての機能\が拡大したのが徳川時代からと言われているので、それに伴なって廻船問屋も拡大していったと思われる。
統計的な資料は少なく、元禄\7年(1694年)掛塚湊船主42人、船頭51人。文化7年(1810年)船主18名、船頭38名、船38艘。天保2年(1831年)船主19名、船40艘。明治25年(1892年)掛塚所属船59艘、500石船多数、最大1,300石。大正12年(1923年)掛塚所属船はなかった。
明治22年(1889年)、東海道線が開通した頃より、徐々に衰退していった。