安政6年(1859年)、掛塚港沖合いで一艘のアメリカ船が横浜に向う途中中之洲に座礁し難破した。 乗組員8名がボートで陸に向けて脱出したものの、ボートが転覆して4名は命を落とした。たどり着いた4名に、浜では大騒ぎで食事を与えたりして懸命に救助活動を行った。
船にはまだ12名が残されていることを知った人々は中泉代官所、浜松藩、横須賀藩の役人とともに12名の救出に当たった。
その後、積荷はすべて掛塚の廻船問屋林文吉所有の船に積み込んで神奈川、横浜まで送り届けられた。
人々は、ここで命を落とした乗組員を供養し墓を建てた。これが外人墓地として今日まで残されている。
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