【 弘化2年(1845年)〜明治38年(1905年)】
(掛塚三傑)
地方の神主として、日本の国学を学び、明治維新時には東海道を江戸に向かう倒幕軍、薩長連合軍に加わり、江戸上野の山にたてこもる、彰義隊を撃破。
戊辰戦争にも参加し以後東京に残り、明治政府の要員として、海軍省に迎えられる。(海軍主計総監、(海軍中将相当)海軍省第三局長に昇進)
遠州・駿河の地は、もともと幕府に近い人達の集まりであった。この環境下で日本の将来を憂いて、遠州報国隊を結成し、306名の隊員の中から87名が江戸まで出向き、幹部として命を懸けて活躍した。(大久保春野と共に)
47歳で貴族院議員となる(予\算の政府委員)。この頃より浜松に住む。遠州地方の諸団体の役員(30以上)を兼ねる。公共事業にも尽力する。又全国的な団体の役員(約10団体)も兼ねた。
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