【 明治27年(1894年)〜昭和57年(1982年)】
山口県の出身で、戦後、明野陸軍飛行学校天竜分教場跡に24名と共に開拓団として入植、生涯を終える。(磐田市飛平松)
旧陸軍の航空隊を築き上げ発展に尽力した12名の一人である。先の大戦中は「空の軍神」として小学校の国語や音楽の教材になった「加藤隼戦斗隊」の加藤建夫少将と同じ飛行集団の上司に当り、根っからの戦闘機乗りであった。「空中戦の神様」といわれ、数々の戦果をあげ、陸軍で最も若くして中将となる。
昭和19年(1944年)10月、フィリピン防衛のため、第30戦闘飛行集団の団長として活躍。海軍は大西滝治郎中将率いる神風特攻隊が活躍、12月頃陸軍も青木武三中将率いる特攻隊が活躍した。全機を失い帰国する。
終戦時、本土決戦のために編成された第20戦闘飛行集団の団長であった青木武三中将に終戦直後部下の青年将校数名が集団の全機(戦闘機約400機)をもって米艦艇群に対して、攻撃し、全員玉砕すべき旨強硬な意見具申\があったが、祖国再建の力となることを諭し説得した。
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