「天竜川」をはっきり文献から見出せるのは平安時代末期に書かれた「更科日記」で、菅原孝標の娘が「天竜川のほとりに療養する」とあるのが最初である。
昔、天竜川は、三方原と磐田原台地の間を幾筋にも分かれて流れていて、本流の流路も不安定だった。これまでにも少なくとも3回の大きな変化が見られる。
1、馬込川に連なる麁玉川(あらたまがわ)の流路
奈良時代の「続日本書紀」によると、天平宝字5(761)年に、遠江国の麁玉川の堤防が300余丈(900m余)決壊して修築したとある。その辺りが大きな流路であり、その流末が馬込川で、下流域には「砂」「島」などの川に関係する地名が今も残っている。
2、坊僧川の流路
平安時代末期の古文書に、天竜川は池田の荘の東をながれると記されている。また嘉応2(1170)年の記録に池田荘の東境を天竜川としたことが記されている。平安時代末から鎌倉時代にかけて天竜川は、磐田原台地の麓、現在の坊僧川の辺りをながれていたようである。磐田市南部には「天竜」という地名がありまた「島」の付く地名が多く残っている。
3、現在に近い流路
室町時代、五山の僧侶万里集九の「梅花無尽蔵」に「天竜の風波をふみ懸塚に就く船師の家に備う先ず小焦餅(しょうへいべい)を喫す」と記されていて「懸塚」という地名が初めて見え、そこには天竜川の東にあると記されている。連歌師の谷牧関東に向かう途中、引間に泊まり、翌日流れの急な天竜川を渡って熊野午前の墓に詣で、見付に泊まったことが記されている。室町時代中期から戦国時代にかけて現在の流域辺りを流れるようになったと思われる。
「天竜川治水年表\」の記録によると天正4(1576)年から天正7(1579)年にかけて天竜川の統合が行われたとのことであるが詳細は不明である。
江戸時代初期には天竜川掛塚の東西を流れていたが、主流は西側が主流で東派川は小流だった。しかし元禄\時代の洪水により両岸が浸食され、それ以後洪水の度に川幅が広がり掛塚は東西の天竜川に抱かれた島となった。
東派川は、昭和10(1935)年に始まり、同19(1944)年まで続いた締め切り工事が完了して、それまでの河川敷から約400haの土地が誕生し、竜洋町役場・中学校・公民館・工場・住宅などが建設された。
天竜川の流路が現在のように固定されたのは昭和26(1951)年とのことで、それ以前の流路は上記のように変遷していた。江戸時代には40回以上の水害の記録が残っている。また明治43(1910)、44(1911)年の水害は豊岡(三塚地区が全戸移転)見付にも及んだ。
天竜川が氾濫すると太田川筋や海浜地区にまで影響が及んだ。
|