江戸時代より本格的な商業湊として、御用米・日用品・神社仏閣の木材・お城の木材としての材料を江戸、関西に運搬した。徳川家康は特に掛塚湊を重要視し、京都より角倉了以(すみのくらりょうい)を呼び、天竜川の水運を開拓し、信州・北遠との物資の流通を便利にし、産業の発展に役立たせた。掛塚の街は、廻船業が盛んになり、材木の運搬、加工で活況を呈した。
明治22年(1889年)、東海道線が開通したため、海の運搬からコストの安い陸の運搬に変わっていき、湊は衰退をたどる。